歴史
鹿嶋立ちの事
昔から、遠方へ旅立つことを、俗に「鹿嶋立ち」という。
6世紀に、日本は任那(みまな)(今の朝鮮半島南部)に勢力の拠点をおいていたが、新羅(しらぎ)(今の朝鮮)・百済(くだら)(今の朝鮮)の勢いが強まり、それを放棄した。日本は、その後も兵を朝鮮に送ったが、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐(今の中国)・新羅の水軍に敗れた。そのため日本は、朝鮮や中国の攻撃を防ぐため、筑紫(つくし)(今の九州地方)の地に城を築き、砦(とりで)を設けて、防備を厳重にし、その守備兵(防人(さきもり))を主として東国から募集した。応募した若者は、鹿嶋の宮に集まり、武運長久(ぶうんちょうきゅう)と、旅の安全を祈って、任地に赴(おもむ)いたところ、戦争もなく、無事に帰還できたということで、「交通安全」の神様としても有名である。
本殿の情報
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昭和6年10月に竣工
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設計 佐々木岩次郎、施工 伊藤平左衛門
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形式、流れ造り。あらゆる要所に飾金具が施されている。
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檜材白木(ひのきざいしらき)造り
旧殿の情報
文化8年(1811)に竣工。以前は現在の本殿が建つ場所に鎮座。新しい本殿が出来てからは、建物の周りに彫られてある鎌倉彫りの彫刻が貴重なものなので壊さずに今の所に移したそうです。
昔は本殿の周りを囲むように小さい祠がたくさんあったのですが、今の所に移された際にさい下に示した五つの御祭神を合祀(ごうし)したそうです。
●天祖神社 ●金刀比羅神社 ●稲荷神社 ●三峯神社 ●八幡神社
境内には、天明5年(1785)奉納の碑文をもつ鳥居、狛犬、水盤、天明7年(1787)奉納の石造随神像(いしづくりずいしんぞう)などがあります。
境内の二本のタブノキの情報
どちらも樹齢約二百年で、神社の象徴として、信仰の対象になっているそうです。
昭和四十四年、鎮座一千年の年に、品川区指定天然記念物として認定されたそうです
言葉のとおり健康長寿に御利益があるようですが詳しいことがわかりません。情報お待ちしております!
炉(ろ)の友に めぐり逢(あ)いたる さくらかな
三世 杜格斎影山(さんせい とかくさいけいざん)
大井囃子の情報報
江戸時代から続いている伝統ある江戸囃子で、大太鼓(おおだいこ)一、調太鼓(しらべだいこ)二、鉦(かね)一、横笛(よこぶえ)一の五人編成で演奏するそうです。
品川区指定無形文化財に指定されているそうです。
会長の高林忠七さんが、昭和36年にまちの有志と共に「大井囃子保存会」を結成して、戦後途絶えていた大井囃子を復活させたそうです。
文政3年に始まったといわれる大井囃子は、170年以上の歴史があるそうです。
古事記の情報
鹿嶋神社の神様(タケミカヅチノオオカミ)は、三重県の伊勢神宮の神様(アマテラスオオミカミ)の命令をうけ、 島根県の出雲大社の神様(オオクニヌシノミコト)がおさめている国を、伊勢神宮の神様の子孫におさめさせるべく、派遣され、それを見事に実現させたので「勝負の神様」、武道の神様」、「商売繁盛の神様」としてたいへん有名です。
参考文献 古事記 上代歌謡 日本古典文学全集
発行所 (株)小学館 訳者 萩原 浅男●鴻巣 隼雄
鹿嶋立ち(かしまだち)という言葉の情報
むかし、中国や朝鮮の攻撃を防ぐため、関東地方から兵隊を募集した。
その兵隊たちが鹿島神宮で「戦争の勝利」や「交通安全」、「旅行安全」を祈願したあとで行ったところ、無事に帰れたと言うことで、「交通安全の神様」や旅行安全の神様」としてたいへん有名です。
相撲の情報
昔は大祭に奉納相撲が開催され境内に土俵や見物のさじきが作られ素人相撲が行われたそうです。
この行事は、昭和初期まで行われていたようです。
詳しい情報や写真があればメールにてお待ちしております。
破魔矢(はまや)
厄除けや家内安全のご利益があるそうです 。価格1,000円
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境内には巨大な品川用水の記念碑がある。品川用水は、江戸の水道として引かれた玉川上水からの分水の一つで、玉川上水のできた1654年(承応2年)より10年ほど後にできた仙川用水から分けて作られた。
目黒から品川にかけては台地が多く、水田はわき水の出るところや、ため池を利用したわずかなものだったが、この用水によって水田開発が進み、当初82石あまりだったものが開通後121石に増えた。
その用水も、明治以降の都市化による水田の廃止にともない役割を終えていった。
用水の維持、管理には用水組合があたっていた。1932年(昭和7年)品川用水大井町内堀普通水利組合が用水の廃止にあたって、用水が生活に貢献したことをたたえた記念碑を作った。
記念碑には用水の歴史が刻まれている。
鹿嶋神社の「恵澤潤洽」の碑は、高さ5メートル以上ある巨大なものだ。この碑は、品川用水が人々に多大な恩恵を与えたことを記念して、後世に伝えるために地元の人が建てたもの。品川用水は、多摩川用水を水源とし、開墾や稲苗の生育に貢献したことなどが書かれている。
地元にとって誇れるものなので、是非とも一読願いたい。「恵澤潤洽」という書と印が彫られている。
~月間おとなりさん Vol.293より
鹿嶋神社 マメ知識
御祭神は武甕槌之神。御創建は平安朝の安和2(969)年に常陸の国、鹿島神宮の御分霊を当地に勧請したのが始まりである。現在の御社殿は昭和6年に竣功した。旧御社殿は(文久2年竣功)精巧を極めた鎌倉彫の彫刻を後世に伝えるため、境内南よりに移し、末社としてある。境内には数百十本の樹木が茂り、神殿横の御神木(タブノキ)は樹齢300年を超える。
末社には三峰神社、金刀比羅神社、天祖神社、八幡神社、稲荷神社を祀ってある。
鹿嶋神社は平安朝の頃、人皇第62代冷泉天皇の御代(みよ)、安和2年(西暦969年)に、南品川常行寺の僧尊栄法印が、常陸(ひたち)の国鹿嶋神宮の御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)したてまつり、同年9月19日遷宮(せんぐう)したてまつったのが創(はじま)りで、爾来子(じらいこ)の地を鹿嶋谷と呼ぶようになった。僧尊栄法印は御分霊の鎮座と同時に、境内の隣地に一寺を建立(こんりゅう)し、鹿嶋爾現山来迎院と号して、鹿嶋神社の別当寺となり、その祭祀(さいし)を司(つかさど)った。
際神の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、天祖(てんそ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御依頼(ごいらい)を受けられて、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と共に、出雲の国に下り賜(たま)い、大国主命(おおくにぬしのみこと)と御談合の結果、円満の裡(うち)に話を纏(まと)められ国土を、天孫(てんそん)、瓊瓊岐尊(ににぎのみこと)にささげしめられて、日本建国の基(もとい)を、お築きになった神様である。明治に至って維新(いしん)の大変革により、神佛分離令(しんぶつぶんりれい)が発せられ、来迎院は寺の部に入り、鹿嶋神社には、新宮の大野氏が配(はい)せられて、大井村の総鎮守(そうちんじゅ)となり、多くの氏子(うじこ)の尊信(そんしん)を集め、今日に至っておる。
本年(西暦1969年)は、鎮座壹千年(ちんざいっせんねん)の記念すべき年に当たり、。連綿(れんめん)として伝承(でんしょう)せられ、悠久鎮座壹千年(ゆうきゅういっせんねん)の歴史を保った鹿嶋神社の、千載一遇(せんざいいちぐう)の光輝(こうき)ある姿に直面した。氏子は、此(ここ)に盛大なる式典を行い、記念の樹を植え、此の由緒と此の荘厳(そうげん)さを、永く後世に伝えんとする。
昭和44年10月19日 宮司 大野 弘道